基礎知識

受験と天神信仰

大出世を果たすも左遷され怨霊と畏れられる

現在でこそ菅原道真公は神としてまつられているが、もちろん実在した人物だ。そんな菅原道真公を祭神とする天神社は全国に約1万2000社あるとされている。これは八幡、稲荷に次いで3番目に多い数だ。

雷神と同一視されたとはいえ、元は普通の人間が、なぜこれほどまでに信仰されているのだろうか。豊国神社や東照宮の例を見ても、人を神としてまつることはそれほど珍しいことではない。ただ彼らはたたえられ神としてまつられることになったが、菅原道真は真逆で、最初は怨霊としてそのたたりを鎮めるためにまつられていたのだ。なぜ怨霊となったのか、道真の生涯を追っていくことでそれが見えてくる。

道真の生まれた菅原氏は学問の家として知られていた。道真の祖父にあたる菅原清公は文章博士(大学寮での漢文学や中国正史の教授)、大学頭(大学寮の長官)を歴任。桓武天皇に儒教の経典を講義する職務(侍読)も務めた。

道真も同様に出世し、而歳で元服した時からすでに朝廷に奉る文書である上奏文を代作していた。一時は宇多天皇のそばに侍ることとなり、最終的に右大臣までのぼりつめる。

だが901年、道真は突如として、大臣経験者の左遷ポストといわれる大宰権師(大宰府長官の代理)に任命される。原因は醍醐天皇を廃して、斉世親王を立てようとする陰謀に加担したからといが、真偽は不明。そして903年、道真は病に倒れ亡くなってしまう。

だが道真の名前はここで消えなかった。『日本紀略」によると923年、皇太子である保明親王が2歳で亡くなった。これが道真の怨霊によるものとされ、醍醐天皇は道真を右大臣へと戻し、左遷の詔を破棄している。公に怨霊の存在が認められたのだ。これ以降、大きな災厄があると京では道真の仕業とされてきた。

925年には天然痘が流行し、5歳の皇太子が亡くなり、930年には藤 原清貫、平希世が落雷によって亡くなってしまう。藤原清貫は大宰府に左遷された道真を監視するように命じられていたこともあり、道真が雷神を操ってたたり殺したといううわさが広まる契機を与えた。

自分のような者を救う雪至の神から学問の神になる

947年、近江国比良宮の神官・神良種の子に道真の霊から託宣が下った。この託宣に従って神殿を造営し天満天神をまつったのが北野天満宮の創建とされる。だが北野には道真が生まれる以前から天神社がまつられており、雷公として信仰されていた。この天神と道真が習合し、道真には雷神としての側面が付与されることになったと考えられる。

この託宣の際、道真の霊は「自分と同じように災難を被った人間を救う」と誓っている。このことから、北野へ参龍し、無実の罪を晴らしたという伝説がいくつか残っている。

これは道真の霊が菟罪に陥った人間を救う「雪の神」として信仰されるようになったことを示している。たたるという悪を行なうことができるならば、悪を制御できるという意味でもある。ここから正義の神としての側面を得て、さらに生前の道真が学問に精通していたことから、学問の神として広く信仰されるようになっていった。これが天神信仰の成り立ちだ。

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