基礎知識

稲荷信仰

渡来人にまつられた稲と穀物の神

稲荷と聞いた時、赤い隈取が施された白いキッネの姿、あるいは千本鳥居を思い浮かべる人が多いだろう。伏見稲荷大社がとくに有名で、どこまでも続く朱色の鳥居などはインパクトも十分だ。じつはこの千本鳥居の由来は、よくわかっていない。しかし江戸時代後期の「再撰花洛名勝図会」には千本鳥居がすでに確認できる。またキツネ=稲荷というイメージが強いが、あくまで稲荷神の使いであり、キツネ自身が神としてまつられているわけではない。

キツネではないなら、稲荷とはいったいどんな神なのか。稲荷神が最初に歴史に現れた記録は、「山城国風土記』逸文に残っている。深草の里と深い関わりをもつ渡来人である秦氏は、稲作によって富を得ていた。おごり高ぶって餅を的に弓を放つとそれが白鳥になって山の峰まで飛んでいき、そこに稲が生えた。それで社の名前を「伊奈利」とした、というものだ。この伝承からわかるのは、稲荷神は稲の神であり、穀物神としてあがめられていたということだ。

現在、伏見稲荷大社には5柱の神がまつられている。主祭神である宇迦之御 魂大神は「古事記」にも登場する神で、同じく『古事記』に登場する豊宇気毘売神(豊受大御神)と同一視されている。豊受大御神は伊勢神宮の外宮である豊受大神宮の祭神で、天照大御神の食事や五穀をつかさどる女神だ。大宮能売大神も神に供える食事を取り扱う匹女を神格化したものといわれ、食物に関係する。こうして稲荷神はより穀物神としての側面を色濃くしていった。

茶根尼天と習合してイメージが定着

京都の教王護国寺(東寺)に伝わる「稲荷大明神流記』という書物がある。それによると816年、真言宗の開祖である空海が紀州の田辺で稲荷神の化身である翁に出会った。空海は日本に密教を広てたいので、東寺に来てほしいといい残す。そして823年、稲を担いでやってきた稲荷神を歓待し、鎮座してもらった場所が伏見稲荷だというものだ。

この伝説によって密教との結びつきができ、稲荷神は茶根尼天と結びつけられていく。茶根尼天は元はヒンドゥー教の女神で、剣と宝珠を手にもち、キツネに乗った姿で描かれることから「辰狐王著薩」「喜狐天王」などと呼ばれる。茶根尼天と習合したから稲荷にキツネのイメージがついたのか、稲荷と習合したから茶根尼天にキツネのイメージがついたのか、明確な史料は存在しない。しかし密教と結びつくことで、これまで以上に広く信仰されていくことになったのは間違いない。

稲荷信仰によってご利益は拡大していった。稲の神として人々にあがめられていたが、漁村地帯では豊穣神としての側面が転じて、漁業神として信仰されることになる。江戸時代になると武士たちが江戸に住む際、土地の神を稲荷神としてまつるようになり、屋敷神として広まっていくことになる。そしてそれを商人たちがまねするようになり、武運長久、商売繁昌のご利益をもたらすこととなった。このような流れで各地に無数の稲荷社が建てられていった。そして現在も幅広い世代に信仰され広まり続けているのだ。

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